ああああのブログ

相場とか哲学の殴り書き。

苦しむ人類

引用

「人類は、自分の達成した進歩の重みに半ば圧し潰されて呻いている。彼女(人類)は、その未来が彼女自身にかかっていることを十分には理解していない。彼女は、なお生き続けることを欲するかどうかをまず知ることが必要である。そして次に、ただ生きることだけを欲するのか、それとも、神々をも作る偉大な宇宙の本質的機能を、われわれの惑星において完遂するため努力することを欲するかどうかを自ら問わねばならぬ」

ベルクソン 道徳と宗教の二つの源泉

宗教と無宗教の効果

「信仰の時代では、彼らの生活の究極の目的は死後におかれている。

なので彼らは、無数の小さな一時的な欲望を抑制することを知らず知らずのうちに学んでいる。

そのような理由で、実は宗教的民族はこの世で成功する偉大な秘訣を手に入れている。

しかし、信仰の光が暗くなるにつれて、人々の視野は狭くなる。自分たちの死後に起こることを考えない習慣が身につくと、将来のことについては完全な無関心に落ち込むことになるであろう。それゆえ、不信仰の時代の時代に常に次のことに警戒しなければならない。それは、自分たちの日常的な欲望を行き当たりばったりに求めていること、長い努力なしには得られない永続的なものを全く作り出そうとしないということである。」

トクヴィルアメリカの民主政治」より要約

 

数百年前は無宗教などと言えば非人間であると思われていたのに、現代では無宗教が当然になりつつある。

トクヴィルの予測は不幸にも的中している。

民主国の主権者である大衆が、その日暮らしの思考をしていたら没落するのは当然である。

また、個人としても悲惨だろう。

たまに聞くのは、老人になって自分の人生は何だったのだろうと悩んでいるという人がいることだ。それはまだマシで、ただ単に消費しっぱなしでそれが当たり前だとふんぞり返っている老人もいる。自分も気を付けたいものだ。

長い目で見て仕事をすること、あまり怠けないこと。 

禅と相場

「日本の弓術」という本がある。外国人である筆者が、日本の弓道を学んだ体験談だ。言うまでもないが、日本の武道は江戸時代前後に禅の思想を取り入れ、敵を殺すというよりも自己の精神練磨のものに進化した。禅を言葉で言うのは難しい。私もよくわからないのだからなおさら言葉では言えない。「日本の弓術」の中で筆者の師匠はこのように言う。「的にあてることを考えてはいけない。ただ弓を引き 矢が離れるのを待って射当てるのだ。」一見して非合理的・逆説的な言葉は禅特有のものだ。禅は意識を捨てよと言う(無心になれ)。意識を捨て去った先に真理がある、と。意識を捨ててどうして思考が出来るのだろうか?思考は脳の産物である。私の推測だが脳以前の生物の機能、それに頼れと禅は言っているのではないか。いわば本能に頼れと。本能というといかにも劣等機能のように現代の科学は教える。しかし私はそうではないと以前の記事でも言ってきた。例えば、犬である。離れた場所に居る飼い主の危機を悟って騒ぎだしたり、その場所に駆けつけて救助する…飼い主が家出したら、場所も知らないはずなのに飼い犬が追いかけてきた…。犬に限ってもこのような話が出てくる。科学では解き明かせない本能の神秘的機能である。

 この神秘的機能を相場に生かせたらどんなに素晴らしいか、と怠け者の私は考えた。似たような話はいくつか見たことがある。恐らくやれば出来るんだと思う。例えば、本の「ゾーン心理学」は禅的トレードと言っても差支えないのではなかろうか。恐怖心や欲望なしに売買するとか、鳥や魚の群れのごとく相場の流れを掴むとか、思考を排除したような記述はいくつかあった。そもそも、「ゾーン」という言葉はスポーツ選手が無意識的に動いている状態(そして活躍する)なのだから、やはり禅と共通する部分が大きい、ほぼ同じことを言っているように思う。ツイッターでもよく見るのは「指が勝手に動いていた」という表現である。これこそ、ゾーン状態であり、無心の状態ではないだろうか。私もいくらか経験はあるがそういうときのトレードは勝率が明らかに高いと思う。いわば、的にあてることを考えずに、自然に矢が離れている状態と同じと言っていいのではないだろうか。

 こっち方向は常識的にはかなり危険な感じがするだろうが、せっかく日本に禅というものがあるのだから日本語がわかる人には面白い趣向ではなかろうか。

ローマはなぜ滅びたか

 カルタゴを滅ぼす前の勃興期のローマの元老院では、議題の軸には「義」があったと言う。他国から助太刀を求められた場合、その国を助けることは正義にかなっているのかということが真面目に論じられたのだ。その頃のローマの国民性も篤実で勇敢であることが当時の本にもありありと描かれている。例えば、軍規である。ローマ軍では勝手に逃げたら死刑である。武器を捨てても死刑。これが上から一方的に決められて恐怖で縛られていたのではなく、兵士達から強く支持されていたという。こういう兵士が弱いはずがなく、かつ、元老院が決定する戦争には明らかな大義があった。ローマ勃興期の兵士や市民に生命力がみなぎっていることがうかがわれるではなかろうか。

 ところが、覇権を握ったころから元老院では「利」を軸に議論されたという。他国から助太刀を求められた場合、それがローマの利益になるかどうかが話し合われた。ときには、大義名分があるかのように装われた陰謀が行われたことも稀ではなかった。兵士といえば、他国から奪った富におぼれる傾向が日に日に強くなった。パンとサーカスや、性の乱れ、貴族の食事の汚さは有名である。こういう兵士が強いわけがない。しかも、戦争には大義名分がないとすれば、どうして力を発揮できようか。どのような悪人でも、戦争を仕掛ける際は大義名分を掲げる。それは、人の心には良心というものがあってそれに一致しなければ人は生命力を発揮できないのだ。しまいにはローマ市民は戦争で使い物にならないのでカエサルなどは積極的にガリア地方から兵士を集めることとなった。カエサル以降のローマはグダグダである。かといって敵らしい敵もいないので数百年かけて滅び去ることとなった。

 ローマはなぜ滅びたかという議論はいろいろあって、とても面白いことだ。私は義と利がローマの治乱興亡のキーワードであると思う。富はむしろ必要以上には無い方が良いのではなかろうか。質実剛健の精神がローマに覇権を取らしめ、覇権による富裕がローマを骨抜きにしてしまった。これは現代に通じるものがあると思う。現代人に、勃興期のローマ兵士のように生命力がみなぎっているだろうか。

 コロナでの指導者や人々の対応も「義」と「利」が大事なキーワードかもしれないと思っている。前回の記事ではコロナは一服すると書いたが、なんだか不安になってきた。英中銀や米中銀のなりふり構っていられない対応はいかがなものだろうか。そこに義はあるんだろうか。

コロナが強敵なのではない。社会が弱く感じるのだ。

 

比較として、150年ほど前のアメリカで干ばつが起こった時に農民援助法案を拒否したアメリカ大統領の演説を引用してみる。

「不幸な同胞を救うためには、常に国民の友情と慈愛を信頼することができる。

…かかる場合に、連邦政府が援助すると、政府による温情主義的保護をあてにする気持ちを助長し、わが国民の不屈の精神を弱め、同胞愛の絆を強化する親切な気持ちや行動をとりにくくする」

資本主義・民主主義であるという幻想

 コロナは大変な危機ではあるが、もう顕在化したと言っても良いのではなかろうか。

目に見えさえすれば対処もしやすいというものだ。(日本はまだ油断が見られるが)

最も危険なのは、危機が目に見えていない場合ではなかろうか。

相場で例えれば、悪材料を想定せずにロングポジションを積んでいるようなものだ。

油断と慢心が負けを呼ぶのである。逆に、危機を認識していれば対応もしやすい。

だからコロナの次の危機を想定していきたい。

 

 現段階における参加者の油断と慢心は何か?それは日欧米が資本主義国であり、民主主義国である(したがって、我々は正しい。)という幻想を持っていることだと私は思う。まず、われわれは資本主義なんだろうか?これは幾人かの人が指摘していることだが、中央銀行のやっていることは共産主義的だということだ。中央銀行が株価を支えたりすれば、通常の資本主義国ならば淘汰されるような企業も生き残ってしまう。そのようなわけのわからないことをやって破綻したのが多くの共産主義国なわけであるが、それとどう違うというのであろうか?

 シンプルに言って、資本主義とは何か。誠実な契約の履行が資本主義である。(資本主義は儲ければ正義みたいなことを稀に見るが、たわごとにすぎない。そんなことを社会の多数がすれば社会は衰退するに決まっている)

 経済成長期を見れば、良いもの、良いサービスを作ってきたからこそ社会が経済成長をしたのである。誠実な仕事の積み重ねがまっとうな資本主義なのである。中央銀行が株を買ったり、ドルを刷ったりすることは誠実な仕事か?いつか破綻するに決まっている。

 次に、あまり指摘が見られないことだがわれわれは民主主義なのか?ということだ。私はすでに民主主義は言葉に過ぎないと思っている。大前提として、社会を指導するものは賢くなければならない。愚かであれば、社会は衰退する。小学生でもわかる理屈だ。では、現在の民主主義の国民は賢いのであろうか。政治に精通しているのだろうか。以前にも書いたことだが、民主主義は地方分権がセットでなければならない。自分の地域のことは住民自身が政治をすれば住民の政治レベルが上がる。住民の政治レベルが高ければ、良い候補者も生まれるし、良い候補者を選ぶ眼力も養われる。したがって、賢明な政府が出来る。が、特に日本はだが住民自身の政治など無くもっぱら中央に委ねているのが現状である。政治に疎い国民による民主主義は信頼出来ないに決まっている。なのに、中国や北朝鮮、中東を批判するとき彼らには選挙がないとか民主主義ではないというステレオタイプな批判が持ち上がる。これが我々の持っている最大の油断・慢心でなくてなんであろうか。若者は選挙に行けとかそういう話ではないのだ。我々の住んでいるシステムの基盤がおかしいのである。

 

 おそらくコロナは収束して一服感は出るだろうが、次なる危機が潜んでいることは意識していたい。

日本の衰退

 日本の衰退は事実であるのに、これに関する良い本が現れないのは残念である。私がおよばずながら書いてみたい。まず、日本は自称、民主主義国である。自称と私があえて書いたその理由として、平等に与えられた投票権による選挙制度があるからということが挙げられるようだ。(よく、民主国ではない国に対し選挙の効能を誇っている新聞の論説を見る。)

 しかし、選挙だけで民主主義国が維持できるだろうか。そうではないと言った人が昔いた。その名をトクヴィルといったが、彼の述べたことを要約するとこうなる。例えば投票権を持つ人々が馬鹿であれば、悪い政府が出来るに決まっている。逆に賢ければ良い政府が出来る。したがって、人々の政治レベルを上げる仕組みがなければならないと彼は言ったのだ。初期のアメリカは住民自治が活発に行われていた。住民自治とは、自分の地域の政治は住民自身でやるということだ。自然、住民の政治レベルは経験で鍛えられる。トクヴィルは、これこそは民主国に必要な要素であると言った。小学生でもわかるシンプルな理屈ではあるまいか。

 ひるがえって日本を見てみよう。現代日本は歴史上まれに見る中央集権国である。中央集権というのは、政治は中央から発せられるということだ。住民の政治レベルは低いままに置かれる傾向が発生して当然のものである。そして現代日本は政治に無関心と言われ、投票へ行こうという呼びかけがさかんに行われている。しかし、そもそもなぜに無関心なのだろうか。それは、政治が中央から下々へ発せられる以上、人々は政治の蚊帳の外に置かれるからではなかろうか。政治と日常的なかかわりが無くてどうして人々が関心を持てるだろうか。また、仮に関心を持ったとして日常と関わりの無いものを議論するということは空論になりがちなのではなかろうか。

 まぁ、どのように無関心になったかはこの辺で筆を置くとしてとにかく無関心であることは事実である。民主主義国であるにもかかわらず、多数者が政治に無関心とは無責任なことである。多数者は政治に責任を持たない、そういう国が衰運を辿ると言うのは当たり前、必然のことであろう。

 が、どうして世間はそれ(日本の衰退)を認めたがらないのか。彼らは日本を褒めたりするTV番組を好むようだ。それこそが日本が衰運を辿る大きな証拠でもある。彼らは現実を直視したくないのだ。苦しさと向き合いたくない、何も背負いたくない、義務を持ちたくないというのが彼らの思想なのである。

 逆に、自分から義務を背負いこんだ時代と人があった。例えば幕末の志士がそうであろう。彼らは誰に頼まれたのでなく自分から救国の志を抱き艱難に飛び込んでいった。それゆえに明治時代で日本は列強に並ぶまでの興隆をしたのである。

 自分たちの未来や現状に関心が無い人々が政治を支配している国が上下どちらに行くかは明らかであり、われわれはいずれ非常な困難と出会うであろう。(が、困難は人を成長させる側面も持つ。)

ドイツ人と日本人が上げ相場に来たら天井

 そういう格言があるらしい。これの説明はシンプルだが、常識にはなっていない。それは、人間の精神というものが知性と本能の2本立てで成り立っているというものである。知性の主体は脳である。記憶したり、計算したり、論理を作るのが知性である。意識的であるという特徴もある。本能の主体は何だろう?それは心だと思うがそれは置いておこう。本能は知性と違って無意識的である。例えば人間の内臓とか血管とか、神経だとかは無意識的に動いている。直観もまた本能に部類される。なぜなら、直観は意識的ではないからだ。直観は直に観るという言葉通り、ある疑問や問題に対する回答が無意識的に直接やってくる。直観というものの一例を示すとすればスポーツにおけるゾーン状態であろう。ゾーン状態では、意識では動いていない。無意識的に、直観的に動いているのである。スポーツにおいては知性・意識を使えば使うほど動きが鈍くなってくる。なぜなら、記憶とは過去の固定されたものにすぎない。スポーツにおける目の前の試合の相手は生きた相手で、過去の動き通りに動くとは限らないのだ。計算もまた記憶を頼りに行うもので、そんな時間を使っていればかえって動きがぎこちなくなる。直観によって、臨機応変に立ち向かうことがスポーツにおける最適の状態なのである。

 相場もまた、生きた相手が画面の向こうにいるもので知性に頼りすぎれば立ち回りが送れてしまうものだ。が、民族性とは不思議なもので論理的思考を得意とする民族もいれば直観を得意とする民族もある。ドイツの哲学書のなんと理屈っぽいことか。彼らは論理を非常に得意とする民族と言われている。相場において論理が必要ないとは言わない。が、それに偏りすぎることは自分の足元を掬うことになる。言うまでもなく、相場の相手は人間である。時には…というより相場ではいつもかもしれない、人間は論理的ではない行動をするものだ。そして、先ほど説明した知性を使うことによるタイムラグはときにスポーツでも相場でも致命的になってしまう。そして、論理を重視するということはむろん知性を重視しているということだ。相場において記憶を偏重してしまえばどうなるか。このチャートは過去のこのチャートと似ている(だから同じ結果を辿る)という固定概念を作ってしまうことになるだろう。もっと短絡的に、この上げ相場は上げているんだからもっと上げるだろうと「論理的に」考えてしまうことになりはしまいか。特に、上げ相場の最後に起こり勝ちなイナゴタワーを形成する場合は。(彼らは、大挙してやってくる大衆なのだ。知性、論理を重視しつつもそれは劣った知性と論理なのである。)

 このことが、タイトルの格言を生みだしたのであろう。ところで、日本人は知性を得意とする民族なのか、直観を得意とする民族なのか。最近は知性偏重民族ではなかろうかと思う。大学試験はその典型例であろう。記憶、計算、論理の試験なのである。が、京都人は直観を得意としているように見受けられる。京都人の著書は直観的なものが多い。相場で生きている人もなぜか京都人が多いように思うのは私だけだろうか。

 民族性や県民性に限らず、一人一人の人間でも直観型と知性型に別れがちなのは興味深い現象である。スポーツの得意な人が試験勉強が苦手だったりその逆だったり。両立している人というのは珍重されるのが一般的ではないだろうか。この現象は不思議であって、私もよくわからない。

 オチはない。相場ではロジック偏重の民族を探し出して逆指標にすることは私は有用だと思っている。