ああああのブログ

相場とか哲学の殴り書き。

瞑想はなぜ効果があるか

 だんだんオカルティックな方向の記事になっている自覚はある。そのリスクを冒して、莫大な利益を得たい。瞑想はほとんどの人に見向きもされていない。だからこそ、価値があるかもしれない。まぁ、無料で出来るのだからリスクは限定的で、拾える利益は大きいかもしれない。昔の偉人は、瞑想は必要であると言っている。

 

 人の精神は、脳と心の二本立てである。脳と心は対極的な特徴を持っている。脳による思考は閉塞性、閉鎖性がある。心による直観は自由で創造的である。それはなぜかというのは過去の記事でも述べたので繰り返しになるが、そもそも思考能力は道具の製作と共に発達してきた。なので、物質を扱うときに最高の能力を発揮する。が、そうではない案件にも物質であるかのように扱ってしまい、うまくいかなくなってしまう。創造的な活動を思い浮かべていただきたい。物書きや音楽のリズムを作ったり、絵を描いたり。それは思考の結果であろうか?ではない。確かに、あれやこれやと考えたりはする。しかし、思考の結果として創造的活動が実るのではない。明らかに、閃きなのである。あーだ、こーだ、、、と考えているうちにフト、直観が閃くのである。あるいは、もはや何も考えてはいないので手に任せているような、無意識的にやっているような、ゾーン状態で創造的活動をしている。

 大きな視野で見れば、人生とは創造の連続であると言えるかもしれない。誰も未来のことをはっきりと推測することは不可能であるからだ。試行錯誤の連続、時には行き詰まることがあるだろう。例えば、人生において数学の公式のようにこれをすれば絶対に正解、というようなことは無い。記憶というものを振り返ってみれば、例えいろいろな可能性を秘めている若者の像ですら、固定的である。いわゆる、固定概念というものを必然的に生み出してしまうのが思考というものなのだ。それは、物質を考えるときは非常に便利だが、それ以外には逆に有害になってしまう。それゆえに、思考を捨てるということは有用な場合があるということだ。現代の風潮として、どうしても科学=素晴らしい、ゆえに思考=素晴らしいとなりがちである。そのツケとして、精神が貧しいとか、閉塞感が、などという声が聞こえるようになるわけである。思考というのはそもそも説明した通りクローズドなものなのだ。発展性は無い。あくまでも物質という系の中でだけのものなのだ。思考に全てを任せれば閉塞感が出て当たり前ということだ。

 では瞑想をすると具体的にどうなるのか。意識を捨て、思考を捨てる。そこにあるのは、まずは無である。すると、不思議なことにあるイメージが湧いてくるであろう。そのイメージこそが、直観が差し出す創造への架け橋なのである。直観は多くの場合言葉ではなくイメージである。そのイメージがなぜ出たのか、解釈が必要である。そのやり方はもう少ししたら公表しようと思う。