ああああのブログ

相場とか哲学の殴り書き。

日本の今後の流れを予想

 日本衰退論はほぼ世間の合意が得られたように思う。では今後どうなるのか、どうすればよいのだろうか。経済成長の復活を求める声が多数派のように思うが、これはどうだろう。そもそも、1990年代に経済成長のピークを極めた時の雰囲気は、私としては「飽きた」であったように思う。サラリーマン的生き方に飽き他の生き方を追求しようとする雰囲気、物質的豊かさに飽き精神的豊かさを求める雰囲気、これらは確かに濃厚にあったように思う。これらを裏付けるいくつかの証拠はある。子供たちの理系離れはどうして起こっただろう。理系こそ、現代の科学技術を支えてきた基礎ではないか。理系離れの理由はシンプルで、科学技術に飽きたのだろう。今においても日本において理系の学問が興隆しているなどという話は聞いたことが無い。(ここでいう学問は受験勉強とは違う。受験勉強は好奇心を犠牲にして立身出世のためにやるもので、学問は立身出世を犠牲にして好奇心を満足させるものだ)基礎がおろそかになっている中、いくら上から声を大にして経済成長を叫んでも空しいだけではないだろうか。加えて、地球温暖化も経済成長の重石になる。移民論もあるが、アメリカのように富で頭脳移民を引き付けるというのではなく、単純労働者を安く使いたいという思惑ではうまくいかないだろう。とにかく経済成長はしにくい、というのが大筋の流れと思う。

 とはいえ、だ。投機家的視点で見れば偏りがあるようにも思う。世間は経済成長に執着しすぎているのではないだろうか。仮に有り余るほどお金を持っているとしても、そのこと自体にはあまり意味が無い。遊んでばかりいるというのは一種の苦行で、退屈で死にそうになるのがオチなのである。金持ちになった人がときどき愚痴を言うに、四苦八苦していたころの方が楽しかった、と。経済成長ということに囚われないで、別にそんなもんはいらんという視点の方が面白いんじゃないかと思う。金儲けに囚われないならば、日本にも面白いものはいくつかある。意外に思われるだろうが、その一つは宗教である。宗教と聞けば、無視されるか白眼視されるのが常であるが、そこが投機家的視点からのねらい目である。(結局、無条件に宗教を批判する人というのは空海親鸞の本を読んだこともないし、禅の文化に触れたこともないのだ。)日本が経済成長しにくいとなれば、どうしても貧しくなって死を意識する瞬間が増えるに違いない。しかも、心の豊かさとは何かというのは潜在的現代日本人の需要は存在した。そういうわけで、前述の日本固有の宗教の復古運動や、宗教の進化は起こると思われる。まぁ堅苦しく言わなくても、「パスカルの賭け」よろしく、宗教というものは信じていた方が人生が良くなる期待値が高くなる。なぜなら、死後のことに目を向けることによって、短期的欲望を抑え、長期的視点から人生を構築する癖がつくのであるから。

瞑想はなぜ効果があるか

 だんだんオカルティックな方向の記事になっている自覚はある。そのリスクを冒して、莫大な利益を得たい。瞑想はほとんどの人に見向きもされていない。だからこそ、価値があるかもしれない。まぁ、無料で出来るのだからリスクは限定的で、拾える利益は大きいかもしれない。昔の偉人は、瞑想は必要であると言っている。

 

 人の精神は、脳と心の二本立てである。脳と心は対極的な特徴を持っている。脳による思考は閉塞性、閉鎖性がある。心による直観は自由で創造的である。それはなぜかというのは過去の記事でも述べたので繰り返しになるが、そもそも思考能力は道具の製作と共に発達してきた。なので、物質を扱うときに最高の能力を発揮する。が、そうではない案件にも物質であるかのように扱ってしまい、うまくいかなくなってしまう。創造的な活動を思い浮かべていただきたい。物書きや音楽のリズムを作ったり、絵を描いたり。それは思考の結果であろうか?ではない。確かに、あれやこれやと考えたりはする。しかし、思考の結果として創造的活動が実るのではない。明らかに、閃きなのである。あーだ、こーだ、、、と考えているうちにフト、直観が閃くのである。あるいは、もはや何も考えてはいないので手に任せているような、無意識的にやっているような、ゾーン状態で創造的活動をしている。

 大きな視野で見れば、人生とは創造の連続であると言えるかもしれない。誰も未来のことをはっきりと推測することは不可能であるからだ。試行錯誤の連続、時には行き詰まることがあるだろう。例えば、人生において数学の公式のようにこれをすれば絶対に正解、というようなことは無い。記憶というものを振り返ってみれば、例えいろいろな可能性を秘めている若者の像ですら、固定的である。いわゆる、固定概念というものを必然的に生み出してしまうのが思考というものなのだ。それは、物質を考えるときは非常に便利だが、それ以外には逆に有害になってしまう。それゆえに、思考を捨てるということは有用な場合があるということだ。現代の風潮として、どうしても科学=素晴らしい、ゆえに思考=素晴らしいとなりがちである。そのツケとして、精神が貧しいとか、閉塞感が、などという声が聞こえるようになるわけである。思考というのはそもそも説明した通りクローズドなものなのだ。発展性は無い。あくまでも物質という系の中でだけのものなのだ。思考に全てを任せれば閉塞感が出て当たり前ということだ。

 では瞑想をすると具体的にどうなるのか。意識を捨て、思考を捨てる。そこにあるのは、まずは無である。すると、不思議なことにあるイメージが湧いてくるであろう。そのイメージこそが、直観が差し出す創造への架け橋なのである。直観は多くの場合言葉ではなくイメージである。そのイメージがなぜ出たのか、解釈が必要である。そのやり方はもう少ししたら公表しようと思う。

直観はなぜ当たるのか

これから書くことは科学では無い。直観には物質や数字の裏付けは無い。したがって、非科学的であるというレッテルを張られる覚悟はある。だが、世の中を見渡してみよう。仕事が嫌で仕方がない人のなんと多いことか。アメリカでは20%の人々が抗うつ剤を常用しているという。実は、科学を盲信した結果が今の世の中ではないだろうか。人の知性がいかに間違いを犯すかを私は以前記事にした。では、何を頼ればよろしいか。新しい原理はないものか。そういう意味で直観の探究は興味深いものだと思う。

 

直観の例を挙げてみよう。

・ネズミがこれから沈む船から逃げ出した(巷の言い伝え)

・犬が遠く離れた飼い主の危機を察知し、その場所まで人を連れて行った(シートン動物記)

ナマズ地震を予知した(巷の言い伝え)

水木しげるの母親が南方の戦地にいる息子の危機を察知し、夜中に起きて神に祈る(水木しげるの漫画)

・エメラルドゴキブリバチは、神経毒を刺してゴキブリを生きたまま完全にコントロールする。その毒は、ある特定の場所に刺さなければゴキブリは死んだり、コントロール不全になる。

・虫の知らせ。

・以心伝心。

・完全に雰囲気だけで相場をやっていて、勝っている人。

 

私自身も不思議な直観体験がある。自転車で遠出しているとき、なぜか自転車がパンクするイメージがしつこく湧いてくる。すると、実際にパンクし、泣く泣く自転車を引いて帰った。

私自身は独身なのでわからないが、夫婦間など人間関係の濃い関係だと相手の気持ちが自然と伝わったりすることはありがちらしい。また、戦争中は指揮官の気分が全軍に伝わるという話を見たことがある。つまり、指揮官が負けた、と認識したとたんに気持ちが伝わってしまい、全軍が弱気になるなど。

まぁこうやって例をあげたが、経験の無い人にとっては共感しにくいだろう。結局、経験が無い人に直観を説明することは、海や深い川の無い地域に閉じ込められている人に水泳を説明するくらい難しい。

今から言うことは本当に、経験が無い人には完全オカルトの、非科学的な、非常識である。

しかし、経験がある人には経験的事実なのだ。この壁を崩すことはは簡単ではなさそうだ。なにせ科学的証拠には数字や物質の裏付けが必要だが、直観にはそれが無いのだから。

 

直観はなぜ当たるのか?これはユングの言う集合的無意識というものが本当にあるということなのである。集合的無意識とは、つまり深層意識はオープンだということだ。他者とつながっているし、なんなら物質ともつながっている。意識のように、一人ひとりで閉じていないのである。なので、遠く離れた物や生物との交信のようなものが出来るということだ。なので、上の例のようなことが可能となる。ただ、いつでもこのような直観体験が出来るという人は稀であろう。なんでもかんでも遠く離れた所のことが常にわかるという人がいたら化け物である。滝行をしていた人が、家の様子を目に見たとかいう話があるように、何らかの集中状態、瞑想状態、恍惚状態のようなものが必要なのだと思われる。

 

しかし集合的無意識は本当にあるのだろうか?一つの試論として、進化論が挙げられるだろう。進化は、一般的(?)には優れたる個体が偶然生まれ、自然淘汰によって生き残り子孫を残した結果と言われている。これは一見正しいように見えて、よく考えればおかしなことだという説がある。というのは、たまたま偶然に遺伝子が変化する。それはよくあることだ。しかし、それはほぼ100%が劣化して現れる。優れた突然変異というものを実際の実験ではまだ現れていないし、生まれた赤ん坊が何かこれまでの人間のカテゴリーを逸脱した優れた特徴を持っている、というような実例は恐らく無い。あくまで、人間であるという種の特徴の範囲内で、人間の特徴の違いが出てくるのである。つまり、数字や物質の裏付けが無いという意味では、突然変異と自然淘汰説は科学的であるというお墨付きは無い。仮に、種の特徴を逸脱した個体が生まれたとしよう。例えば、サルから類人猿が一人だけ生まれたとする。で、類人猿はサルと交尾して受精出来るのだろうか?あくまで、受精とは同じ種の個体同士がやり、その種の遺伝子を正確に複製したものである。受精の目的を一つあげるとすれば、種の存続であろう。どうして違う種となった個体と受精出来るだろうか?仮に受精出来ても、ロバと馬のアイノコのように一代限りとなるのではなかろうか。動物のアイノコが子孫を作った例は無いのではなかろうか。仮にもう一歩譲って、アイノコも子孫を作れるとしよう。類人猿と猿の子供が出来た、と。すると、その子供は類人猿と猿の中間の特徴を持った個体になるのではなかろうか。そう、ロバと馬からラバが生まれるように。となると、だんだんと優れた特徴というものが薄くなってしまう。こんなに話を譲歩しても突然変異自然淘汰説はボロボロである。

 種が進化を成し遂げる場合、同時に多数の進化した個体が生まれなければならない。つまり、偶然では無しえない。そのような確率はもはやほぼゼロである。一歩譲って仮に、あるとしよう。偶然に、優れたる特徴を持った個体が、複数誕生した。それはでも、もはや自然淘汰ではない。そのような複数の個体が生まれた時点で進化は終わっている。別の仮説を出そう。集合的無意識がある、とする。その集合的無意識の中で、新しい種を創造するという飛躍的な合意が成立すると、複数の個体が誕生する。この仮定も荒唐無稽に違いないが、自然淘汰説よりも強固ではないだろうか。

 

ここまで書いたが、やめた。しょせん、直観の経験があるか無いかなのだ。経験の無い人を説得するというのは至難の業。私も、複数の経験をするまでは集合的無意識に懐疑的であった。

日本の下降トレンドについて

日本の下降トレンドについて

 

 いやはや、さすがに無職暮らしの私でもコロナ疲れしてきた。コロナ自体が原因ではなく、GOTO政策や五輪のゴリ押しというコロナ対策と正反対のことをしたがる政府の老害っぷりにあきれ果てているのである。政府が自粛しないのであれば自分も自粛しないという人が増えたので、このように自粛期間がずるずる長引いたというのは大きいと思う。一方で自粛してくれといい、一方では国民が活動的になるような政策をする。完全に矛盾しているのだ。かつ、中国のように大規模に検査して感染者を限りなくゼロに近くするでもなく、米国のようにワクチンを急ぐでもない。いったい、我が国は何がしたいのかさっぱりわからないのだ。と私は思うのだが、それでも政府を支持する人が一定数いるのだから驚きであるし、疲れの度合いを増すような気分になるのだ。とはいえ外国に移住したり山奥に引っ込むような蓄えもないし、しゃあない、なんとか知恵を搾るしかあるまい。

 

 この状況は何かに似ているなと思うときがある。相場で大暴落するときというのは、大暴落しないという風に考えている人が多数いる状況である。大暴落なんか無いと考えるから安心してロングするし、キャッシュの割合を減らし現物を買いこむ。例えば2018年の11月のBTCである。日足週足の単位でディセンデイングトライアングルが出来ているにも関わらず、上抜けするという意見が多数を占めていたように思う。かくいう私も上抜けするとは言わなかったが下がるかは懐疑的であった。BTCの6000ドルはいつもサポートだったのだ。結果はご存じの通りの大暴落で3000ドルまで落ちてしまった。下がると思っていなかった人の買いポジションは瞬く間に清算され、売りが売りを呼んでしまったのだ。

 日本もこうなるんじゃないかと思う。このままでは日本は危ういぞという意見が無いのであれば、どうして今より良くなるだろうか?真剣に悪い部分を改善しようと思うどころか、指摘した人を糾弾するかのような雰囲気である。これもまたどこかで見た光景だ。そう、XRPである。こういう理由で下がるぞと指摘した人を集団リンチにしたのだ。私もそうであるが、人間というのはなかなか自分を客観視出来ないものらしい。特に自分の持っているポジションに対しては。私もロングポジションを持っているときは買いの理由がどんどん浮かんでくる。ショートポジションを持っているときは、売りの理由が山ほど思い浮かんでくる。そんなもんである。日本人であるからには、日本政府のやることに肯定的な理由を探すように行動するのが普通なのだろう。が、政府が誤っていることをも国民が正当化しては本末転倒である。

 

 日本はどこで誤ったのであろう。日本は民主国である。民主国であるからには、国民のレベルと政府のレベルは比例する。この点は過去のアメリカが優秀であった。地方自治によって国民に政治を経験させ、国民のレベルを上げたのだ。が、日本は世界にも稀に見る中央集権である。政治は全て役人と政治家がする。国民は投票をすれば良い。こんな民主国が健全に運営出来ると思うだろうか?政治をやったことがない国民がどうして最良の政治家を選べるだろうか。どうして良い候補者が生まれるだろうか。土台からおかしかったのだ。政治主導だの、構造改革だの、土台の上をどういじろうが改善はしなくて当然だ。

 

 日本の転換点その2。豊かさの次は貧しさが来るというユダヤの格言がある。創業から3代で企業の多くが潰れるように、どうしても豊かになるとタルんでくるらしい。そりゃ、貧しいなら体と頭をフル回転しなければ死ぬんだからがんばるに決まっている。がんばらなくても生きていけるならがんばらないのが人間というものではなかろうか。自然のサイクル的に日本は低迷モードに入らざるを得なかった部分も大きいと思う。

 

 いつまで下降トレンドが続くか。飢えが発生するまでだろう。人間、たいていは極限状態まで追い込まれないと飛躍しないものだ。暮らしていけるなら安穏として暮らしていくのがたいていの人なのだ。歴史を見ても、相当な危機が発生しなければ革命的な運動は起こらない。

 

 で、大した知恵も思い浮かばないんだが、トレンドが発生しているなら乗るしかない。ダウ日経のロングショート、クロス円のロング、まだまだ日本危機論が少ない今でも行けるんではなかろうか。NHKかなんかで日本ヤバイみたいな論調になるまでは。中国はコロナをうまく対策したし、アメリカも老いたとは言え今までの蓄積を生かして強力なワクチンを作ることに成功した。日本は個人的にはこのようにもう老いぼれたと思う。その国力の差はまだ相場は消化仕切っていないのではないだろうか。

 ただ、例えば今すぐドル円ロングをしていいかと問われればわからんとしか言いようがない笑わかるなら教えて欲しいものだ。あー、楽して稼ぎたいものだ。



アメリカの興亡

これは過去記事のリライトです。

 

アメリカの今後を予想するために、アメリカはなぜ躍進したのかということを書いてみたい。

 

アメリカが世界第一の資本主義国であることは言うまでもない。

そもそも資本主義とは何だろう。

浅はかな人は、儲けることを資本主義だと言う。

儲ければ何でも良いという意味を込めて。

しかし、それは間違いであることはすぐに証明できる。

誠実な取引が行われれば、両者が得をする。

このような誠実な取引が多く行われるほど社会全体が富む。

逆に、不誠実な取引をして一方だけが儲かりもう一方が損をすればどうだろう。

そのような不誠実さが社会に蔓延したら、社会全体が富むことは無い。

資本主義とは、誠実な取引の積み重ねなのである。

アメリカは、上で書いたような誠実な取引の積み重ねによって社会全体が富んだ。

アメリカ人はなぜ誠実なのか。

その主要な原因は宗教である。

宗教、と聞くとうろんな目で見る人が多いだろう。

しかし、常識を疑って行こう。

多数者の総意というものはいつだって頼りないことは、特定の分野に詳しい人であれば気づくであろう真理である。

薄っぺらな知識を、多数者の総意であるからと慢心してかかるのが世論というものなのだ。

 

宗教ほど資本主義にとって良いものはない。

アメリカに根ざした宗教は、嘘は良くないことを人々に教えた。

嘘をつかずに契約を守り、お互いが納得できる取引が活発に行われたとすれば、社会全体が豊かになることは当たり前のことだろう。

 

しかしながら、アメリカはだんだんと無宗教が増えてきた。

それは、皮肉なことに豊かになったからである。

豊かになる前のアメリカ人は貧しいからこそ、死後のことを考えざるを得なかった。

貧しさとは死を連想させることでいっぱいなのだ。

なので、宗教との相性も良かった。

宗教は、死後の世界を示唆して生前の行いを正すよう促した。

人は、自分の死後までの長期的な目線を考えざるを得なかった。

そのことはかえって、資本主義の事業をやるには有利に働いたのである。

短期的な誘惑や詐欺的な利益などは一蹴し、これはと思った長期的な事業に向けて努力する。

宗教は資本主義に実に好都合に働いたのだ。

それで、豊かになるとどうなるか。

それは、死を考えなくとも済むということなのだ。

豊かな食物、暖かい服、快適な住居。

貧しい食物、ぼろの服、わびしい住まい。

どちらが死に近く、死に遠いか一目瞭然のことだろう。

死を意識せずに済むということは、宗教から遠ざかるということでもある。

死を意識するということは怖いことだ。

誰だって、生きていたい。生きているからこその喜びがあるのだから。

死ぬとどうなるというのは誰もが持つ恐怖である。

宗教は、死後の世界があるということを示唆する。

それが本当かウソかはここでは述べまい。

が、死後の世界はあると考えたほうが資本主義にとっては有利であるということは前に述べた通りである。

豊かな生活は、死後の世界を想像しにくくなる。

ということは、今さえよければ良いというような有害な考えをはぐくむことになりはしないだろうか。

有り余る富を持っていたら、どうして酒池肉林の生活をせずにいられるだろうか?

死後の世界だとか、宗教の教えだとか、そんなことを考えるより目の前の快楽に溺れずにいられる人がどれだけいるだろうか。

酒池肉林は大げさでも、スマホをポチポチするなどして無為な時間を過ごしてしまった経験は誰しもあることではないだろうか。

目の前の一時的な快楽のために嘘をつく人間が増える傾向になりはしないだろうか。

そういうわけで、アメリカの資本主義は宗教によって躍進したが、無宗教によって衰退することを私は予想する。

 

もう一つ、アメリカは世界一の民主主義国である。

それはどうしてか。

アメリカはもともと地方分権であった。

学校や道路をどのように作るかとか、州の法律はどうするかなど、住民自身で委員会を作ったりして決めていたそうだ。

これは住民にとって大変な負担に違いない。

いろいろな利害が交錯して面倒だし、人の意見をまとめるのは相当な時間がかかる。

だが、大変なメリットもある。

住民は政治的な経験を積むということである。

政治的な経験を積んだ人々による民主国、そうでない民主国、どちらが発展するかは小学生でもわかる理屈ではなかろうか。

だが、今のアメリカは地方分権が衰退してきているとのことだ。

大企業の登場によって異動が多くなったことで土地に縛られない人が増えたなどの理由を上げる人もいるが、

そもそも豊かになれば必然的に面倒なことはしたくなくなるというのが主要な原因ではなかろうか。

Aという人物の利害とBという人物の利害が相反しているとき、双方を納得させるというのは至難の業となる。

そういう面倒ごとから離れて、自分の給料で楽しむ時間を増やしましょうとなるのが自然なことではあるまいか。

 

お金がなかった時代なら、やむなく自治をやった。

どうして豊かになっても面倒ごとをしたいと思うだろうか?

そういうわけで、アメリカの民主主義は地方分権によって発達し、地方分権離れによって衰退することを私は予想する。

 

最後のまとめ

アメリカという世界一の国がこれからどうなるか?

資本主義は衰退し、民主主義も衰退する。盛大なダウントレンドはすでに始まっていると予想。特に米国債は危うい。民間企業なら新陳代謝が行われるが(それも最近の金融緩和で怪しいが)国は新陳代謝が鈍い。

知性と直観について

 

はじめに

知性と直観という人間の基本的な機能を勉強したので書いてみたい。

ちなみに、科学的ではない。

最近の風潮では科学的ではないものは無視される傾向があるが自分はそう思ってない。

例えば、心の存在を科学で説明は出来ないだろう。

他の内臓などのように、解剖実験でこれが心です、と取り出してみせることは出来ない。

そういう物証が科学では大事とされている。

しかし、科学で説明できないと言って人間の心の存在を無視できるだろうか。

それはいくらなんでも無理だろう。それが科学の限界なのだ。

新しい知識を探すのに、どうして今までの常識に囚われる必要があるだろうか。

それは危険もあるに違いないが、大いに好奇心をそそられる道のりでもあろう。



知性の弱点について

 

そもそも知性とは何か。

人類だけが、この世界で随一の知性を持っている。

そもそも人類は、いつこの知性を獲得したのか。

所説あるが、私は以下の説を採る。

知性の獲得は、道具の製作と関係している。

人間だけが道具を製作出来る。

素材の長さや重さを計算出来る。素材を組み立てられる。それを記憶出来る。

全て、優れた知性がなければ出来ないことだ。

(狩猟と知性が関係あるとすれば、他の動物も人類並みに知性が発達しているだろう。)

ここまではほぼ異論はないと思う。問題は次の説だ。

「逆に言えば、知性は道具の製作に特化しているため生物が関わる事象の取り扱いは苦手になる」

道具の素材は、無機物である。勝手に動かない。石は道具を製作するような時間軸ではずっと石であり続ける。木材は木材であり続ける。

だが、生物は無機物とは逆に変化し続けるものだ。

子供は成長するし、大人だって成長もあれば衰弱もある。

子供のころ、親戚などに久しぶりに会ったときに「大きくなったね」と言われた記憶がある人は少なくあるまい。

彼らの脳みそでは、昔の記憶上の小さかった頃の姿を思い描いていたのである。

それが成長して大きくなっているので驚くというわけだ。

つまり、こうだ。

知性での記憶は、小さかった頃の姿で固定化されてしまう。

まるで石がずっと石であるかのように。だから成長する姿を見て驚いてしまう。

三国志で、ある脳筋武将がいた。人々もそう評価していた。ところが、心機一転猛勉強して国の参謀にも認められるようになると、人々は驚いた。

知性とはそういうものなのだ。対象が無機物の場合はいい。数学の公式なんかもいい。

それらは基本的には変化しない。

だが、対象が生物となると話が違ってくる。生物は変化する。

生物を無機物のように扱ってしまうと、それは固定概念となってしまう。

 

スポーツと知性

 

スポーツは、知性を使うのだろうか。これは、使わない方がいい。

よくプロスポーツ選手のインタビューで聞くのは

「(優勝などを)意識せずに行きます」

ということだ。積極的に意識します、という話はあまり聞いたことがない。

意識する、とは思考をする、ということで知性を使うということだ。

スポーツの対戦相手を前にして思考するだろうか?

この動きはフェイントか、右に行ったらこうして、左だったらああする、などといちいち考えたりはしない。そもそも考える暇はないし、考えたらぎこちなくなってしまう。

ましてや、優勝したら賞賛を受けるだの、賞金が貰えるだの、負けたらそれが無いだの考えるのは最悪だろう。体が緊張したり、試合に集中できない原因となってしまう。

意識せずに直観的にサッサと動いたほうがスポーツは実力を発揮できる。

この状態を「ゾーン」というらしい。

日本語で言い換えれば直観的とか無心とか夢中とかだろうか。

つまるところ、意識ではない。知性ではない。直観で動くのである。



直観とは何か

 

ここからは、より経験論に依っていく。

結論から言えば、直観とは思考なしにいきなり答えを閃くような機能である。

閃、という字にはピカッと光るというような意味もある。

直観も、一瞬光るような感じで答えが出てくる。

どこから答えが出てくるのか、それは今までのすべての経験、あるいはもっと深い何かかもしれない。

なぜ答えがやってくるのか?それはわからない。とにかく、いきなり答えが閃くのが直観である。

もう一つの働きは、以心伝心的な伝達の働きがあると思われる。「ゾーン心理学」では、ゾーン状態を鳥や魚の群れに例えている。鳥の群れを見ると、群れ単位でカクっと一斉に方向転換する。彼らは思考して動いているわけではないのだろう。無意識的に、直観的にシンクロして動いている。そのようにトレードせよ、とゾーン心理学の筆者は言っている。

どうしてそのようなことが可能なのかはよくわからない。

ただ、直観はおおむね経験的に見て当たる。何か不思議な機能である。

ということを前提にして、直観を利用する方法を書いてみる。

(しかしなにしろ直観はあたるということを前提にしているので、ここに共感出来ないなら読んでも仕方ないかもしれない。)



直観を利用するために

 

直観と雑念について。

あるイメージが思い浮かんだとする。例えば、相場が下がるとか、上がるとか。

それは直観なのか、雑念や願望なのか。

ロングポジションを持っていて、上がったら利益が手に入る。

だから上がってほしいという願望か。

あるいは、相場が上がるということを直観的に察知したものなのか。

経験的に言えば、私利私欲は直観の邪魔をする。

儲かったら嬉しいだの、損したら怖いだのという精神状態は直観の状態ではない。

先に述べたスポーツの例えをもう一度出してみよう。

ゾーン状態のときは、勝ち負けは考えていない。

ただただ、目の前のことに集中している状態で余念はない。

スポーツにしろトレードにしろ難しいのはここだろう。

誰だって、勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい。

どうしてそのことを意識せずにいられるだろうか。

だが、意識してしまえばゾーン状態ではない。

そういう意味ではトレードはスポーツよりもゾーンに入るのが難しいかもしれない。

儲けたくて相場をやるのだ。それを意識しないというのは普通ではない。

これは余談だがこういう話をたまに聞く。仮想通貨トレードで、BITMEXは損益がよくわからないのでやりやすい、という話だ。BITMEXはBTC建で取引されるので、何円勝ったのか負けたのかよくわからない。数字に疎い私は猶更である。なので、淡々とトレード出来た。BITMEXではなくとも、ドル建ての海外取引所はおおむね淡々とトレード出来る。ドルは普段日常で使わないので現実感がないのだ。よく言われるのは、ゲームの通貨でトレードしているというものでメンタルをブレさせずにトレード出来るということだ。国内取引所だと、デカデカと日本円で損益の数字が出てくる。すると、メンタルが弱い私などはすぐ動揺してしまう。ゾーンどころではなくなってしまうのだ。

 

直観と知性について

ある直観が閃いたとする。相場は上だ。と。

が、思い出していただきたい。知性というやつは固定概念を作ってしまう。

上だ、という直観を固定概念化し、その次は下落だという直観を無視してしまいがちになる。

とにかく知性というやつは過去に囚われがちなので注意が必要だと思う。

 

直観は創造である

発明は知性の産物だろうか、直観だろうか。

経験的に言って、直観である。

あれこれ考えた結論が発明だったときというよりは、

無関係のことをしていたときにハッと閃く。

禅やヨガは、意識を捨てよ、と言う。

禅やヨガは中国やインドという文明国で生まれ、類似の文化は遊牧や狩猟の社会には生まれなかった。

知性に偏るという害を取り除くために禅やヨガが生まれたとは言えないだろうか?

知性は、何度も言うように固定概念を作ってしまう。

例えば、昔の中国では知性の優れたものを選出しようと科挙という試験制度を作った。

しかし、その結果は中国文明の停滞ではなかろうか。

禅やヨガは、知性による固定概念を捨て、直観による創造性を探る手法とは言えないだろうか。

フランスの哲学者が、瞑想は必要であるという意味のことを言っていたのを見たことがある。

一方で、瞑想は危険性があると主張する人もいる。

それはそうだ。瞑想によるにしろ何にしろ創造とは、古い秩序の破壊を伴うものだ。

 

直観の主体は心である

宮本武蔵は、五輪の書で心の目で観よと述べている。これは直観のことだろう。

経験的にも、直観は脳ではなく心という感じがする。

特に証拠らしきものはない。私の直観による。

なので、心の健康を保つことは直観を養うことにつながると思う。

よく寝ること、やましいことはしないこと、嫌なことはしないこと。

 

社会の閉塞感について

知性は、閉鎖的である。知性は創造が出来ない。生物を無機物のように扱う。

過去の事象に囚われてしまう。固定概念で、社会を停滞させてしまう。

直観は、何物にも囚われない。自由である。

知性は科学を発展させたが、あまりに知性的すぎる社会は閉塞感を生む。

過去に創造的なことをした偉人が、今の名門大学の試験に合格できるか思い浮かべてほしい。

知性にしろ直観にしろ、適材適所ということだ。

知性による閉じた社会は個人的には飽き飽きしている。

直観・心というものがこれからの時代に大切なのではなかろうか?



*この記事は過去に書いた記事に加筆訂正したものである

 

参考図書

創造的進化 ベルクソン

道徳と宗教の二源泉 ベルクソン

ゾーン心理学 マーク・ダグラス