ああああのブログ

相場とか哲学の殴り書き。

直観はなぜ当たるのか

これから書くことは科学では無い。直観には物質や数字の裏付けは無い。したがって、非科学的であるというレッテルを張られる覚悟はある。だが、世の中を見渡してみよう。仕事が嫌で仕方がない人のなんと多いことか。アメリカでは20%の人々が抗うつ剤を常用しているという。実は、科学を盲信した結果が今の世の中ではないだろうか。人の知性がいかに間違いを犯すかを私は以前記事にした。では、何を頼ればよろしいか。新しい原理はないものか。そういう意味で直観の探究は興味深いものだと思う。

 

直観の例を挙げてみよう。

・ネズミがこれから沈む船から逃げ出した(巷の言い伝え)

・犬が遠く離れた飼い主の危機を察知し、その場所まで人を連れて行った(シートン動物記)

ナマズ地震を予知した(巷の言い伝え)

水木しげるの母親が南方の戦地にいる息子の危機を察知し、夜中に起きて神に祈る(水木しげるの漫画)

・エメラルドゴキブリバチは、神経毒を刺してゴキブリを生きたまま完全にコントロールする。その毒は、ある特定の場所に刺さなければゴキブリは死んだり、コントロール不全になる。

・虫の知らせ。

・以心伝心。

・完全に雰囲気だけで相場をやっていて、勝っている人。

 

私自身も不思議な直観体験がある。自転車で遠出しているとき、なぜか自転車がパンクするイメージがしつこく湧いてくる。すると、実際にパンクし、泣く泣く自転車を引いて帰った。

私自身は独身なのでわからないが、夫婦間など人間関係の濃い関係だと相手の気持ちが自然と伝わったりすることはありがちらしい。また、戦争中は指揮官の気分が全軍に伝わるという話を見たことがある。つまり、指揮官が負けた、と認識したとたんに気持ちが伝わってしまい、全軍が弱気になるなど。

まぁこうやって例をあげたが、経験の無い人にとっては共感しにくいだろう。結局、経験が無い人に直観を説明することは、海や深い川の無い地域に閉じ込められている人に水泳を説明するくらい難しい。

今から言うことは本当に、経験が無い人には完全オカルトの、非科学的な、非常識である。

しかし、経験がある人には経験的事実なのだ。この壁を崩すことはは簡単ではなさそうだ。なにせ科学的証拠には数字や物質の裏付けが必要だが、直観にはそれが無いのだから。

 

直観はなぜ当たるのか?これはユングの言う集合的無意識というものが本当にあるということなのである。集合的無意識とは、つまり深層意識はオープンだということだ。他者とつながっているし、なんなら物質ともつながっている。意識のように、一人ひとりで閉じていないのである。なので、遠く離れた物や生物との交信のようなものが出来るということだ。なので、上の例のようなことが可能となる。ただ、いつでもこのような直観体験が出来るという人は稀であろう。なんでもかんでも遠く離れた所のことが常にわかるという人がいたら化け物である。滝行をしていた人が、家の様子を目に見たとかいう話があるように、何らかの集中状態、瞑想状態、恍惚状態のようなものが必要なのだと思われる。

 

しかし集合的無意識は本当にあるのだろうか?一つの試論として、進化論が挙げられるだろう。進化は、一般的(?)には優れたる個体が偶然生まれ、自然淘汰によって生き残り子孫を残した結果と言われている。これは一見正しいように見えて、よく考えればおかしなことだという説がある。というのは、たまたま偶然に遺伝子が変化する。それはよくあることだ。しかし、それはほぼ100%が劣化して現れる。優れた突然変異というものを実際の実験ではまだ現れていないし、生まれた赤ん坊が何かこれまでの人間のカテゴリーを逸脱した優れた特徴を持っている、というような実例は恐らく無い。あくまで、人間であるという種の特徴の範囲内で、人間の特徴の違いが出てくるのである。つまり、数字や物質の裏付けが無いという意味では、突然変異と自然淘汰説は科学的であるというお墨付きは無い。仮に、種の特徴を逸脱した個体が生まれたとしよう。例えば、サルから類人猿が一人だけ生まれたとする。で、類人猿はサルと交尾して受精出来るのだろうか?あくまで、受精とは同じ種の個体同士がやり、その種の遺伝子を正確に複製したものである。受精の目的を一つあげるとすれば、種の存続であろう。どうして違う種となった個体と受精出来るだろうか?仮に受精出来ても、ロバと馬のアイノコのように一代限りとなるのではなかろうか。動物のアイノコが子孫を作った例は無いのではなかろうか。仮にもう一歩譲って、アイノコも子孫を作れるとしよう。類人猿と猿の子供が出来た、と。すると、その子供は類人猿と猿の中間の特徴を持った個体になるのではなかろうか。そう、ロバと馬からラバが生まれるように。となると、だんだんと優れた特徴というものが薄くなってしまう。こんなに話を譲歩しても突然変異自然淘汰説はボロボロである。

 種が進化を成し遂げる場合、同時に多数の進化した個体が生まれなければならない。つまり、偶然では無しえない。そのような確率はもはやほぼゼロである。一歩譲って仮に、あるとしよう。偶然に、優れたる特徴を持った個体が、複数誕生した。それはでも、もはや自然淘汰ではない。そのような複数の個体が生まれた時点で進化は終わっている。別の仮説を出そう。集合的無意識がある、とする。その集合的無意識の中で、新しい種を創造するという飛躍的な合意が成立すると、複数の個体が誕生する。この仮定も荒唐無稽に違いないが、自然淘汰説よりも強固ではないだろうか。

 

ここまで書いたが、やめた。しょせん、直観の経験があるか無いかなのだ。経験の無い人を説得するというのは至難の業。私も、複数の経験をするまでは集合的無意識に懐疑的であった。