ああああのブログ

相場とか哲学の殴り書き。

ドイツ人と日本人が上げ相場に来たら天井

 そういう格言があるらしい。これの説明はシンプルだが、常識にはなっていない。それは、人間の精神というものが知性と本能の2本立てで成り立っているというものである。知性の主体は脳である。記憶したり、計算したり、論理を作るのが知性である。意識的であるという特徴もある。本能の主体は何だろう?それは心だと思うがそれは置いておこう。本能は知性と違って無意識的である。例えば人間の内臓とか血管とか、神経だとかは無意識的に動いている。直観もまた本能に部類される。なぜなら、直観は意識的ではないからだ。直観は直に観るという言葉通り、ある疑問や問題に対する回答が無意識的に直接やってくる。直観というものの一例を示すとすればスポーツにおけるゾーン状態であろう。ゾーン状態では、意識では動いていない。無意識的に、直観的に動いているのである。スポーツにおいては知性・意識を使えば使うほど動きが鈍くなってくる。なぜなら、記憶とは過去の固定されたものにすぎない。スポーツにおける目の前の試合の相手は生きた相手で、過去の動き通りに動くとは限らないのだ。計算もまた記憶を頼りに行うもので、そんな時間を使っていればかえって動きがぎこちなくなる。直観によって、臨機応変に立ち向かうことがスポーツにおける最適の状態なのである。

 相場もまた、生きた相手が画面の向こうにいるもので知性に頼りすぎれば立ち回りが送れてしまうものだ。が、民族性とは不思議なもので論理的思考を得意とする民族もいれば直観を得意とする民族もある。ドイツの哲学書のなんと理屈っぽいことか。彼らは論理を非常に得意とする民族と言われている。相場において論理が必要ないとは言わない。が、それに偏りすぎることは自分の足元を掬うことになる。言うまでもなく、相場の相手は人間である。時には…というより相場ではいつもかもしれない、人間は論理的ではない行動をするものだ。そして、先ほど説明した知性を使うことによるタイムラグはときにスポーツでも相場でも致命的になってしまう。そして、論理を重視するということはむろん知性を重視しているということだ。相場において記憶を偏重してしまえばどうなるか。このチャートは過去のこのチャートと似ている(だから同じ結果を辿る)という固定概念を作ってしまうことになるだろう。もっと短絡的に、この上げ相場は上げているんだからもっと上げるだろうと「論理的に」考えてしまうことになりはしまいか。特に、上げ相場の最後に起こり勝ちなイナゴタワーを形成する場合は。(彼らは、大挙してやってくる大衆なのだ。知性、論理を重視しつつもそれは劣った知性と論理なのである。)

 このことが、タイトルの格言を生みだしたのであろう。ところで、日本人は知性を得意とする民族なのか、直観を得意とする民族なのか。最近は知性偏重民族ではなかろうかと思う。大学試験はその典型例であろう。記憶、計算、論理の試験なのである。が、京都人は直観を得意としているように見受けられる。京都人の著書は直観的なものが多い。相場で生きている人もなぜか京都人が多いように思うのは私だけだろうか。

 民族性や県民性に限らず、一人一人の人間でも直観型と知性型に別れがちなのは興味深い現象である。スポーツの得意な人が試験勉強が苦手だったりその逆だったり。両立している人というのは珍重されるのが一般的ではないだろうか。この現象は不思議であって、私もよくわからない。

 オチはない。相場ではロジック偏重の民族を探し出して逆指標にすることは私は有用だと思っている。