ああああのブログ

相場とか哲学の殴り書き。

知性と直観について

 

はじめに

知性と直観という人間の基本的な機能を勉強したので書いてみたい。

ちなみに、科学的ではない。

最近の風潮では科学的ではないものは無視される傾向があるが自分はそう思ってない。

例えば、心の存在を科学で説明は出来ないだろう。

他の内臓などのように、解剖実験でこれが心です、と取り出してみせることは出来ない。

そういう物証が科学では大事とされている。

しかし、科学で説明できないと言って人間の心の存在を無視できるだろうか。

それはいくらなんでも無理だろう。それが科学の限界なのだ。

新しい知識を探すのに、どうして今までの常識に囚われる必要があるだろうか。

それは危険もあるに違いないが、大いに好奇心をそそられる道のりでもあろう。



知性の弱点について

 

そもそも知性とは何か。

人類だけが、この世界で随一の知性を持っている。

そもそも人類は、いつこの知性を獲得したのか。

所説あるが、私は以下の説を採る。

知性の獲得は、道具の製作と関係している。

人間だけが道具を製作出来る。

素材の長さや重さを計算出来る。素材を組み立てられる。それを記憶出来る。

全て、優れた知性がなければ出来ないことだ。

(狩猟と知性が関係あるとすれば、他の動物も人類並みに知性が発達しているだろう。)

ここまではほぼ異論はないと思う。問題は次の説だ。

「逆に言えば、知性は道具の製作に特化しているため生物が関わる事象の取り扱いは苦手になる」

道具の素材は、無機物である。勝手に動かない。石は道具を製作するような時間軸ではずっと石であり続ける。木材は木材であり続ける。

だが、生物は無機物とは逆に変化し続けるものだ。

子供は成長するし、大人だって成長もあれば衰弱もある。

子供のころ、親戚などに久しぶりに会ったときに「大きくなったね」と言われた記憶がある人は少なくあるまい。

彼らの脳みそでは、昔の記憶上の小さかった頃の姿を思い描いていたのである。

それが成長して大きくなっているので驚くというわけだ。

つまり、こうだ。

知性での記憶は、小さかった頃の姿で固定化されてしまう。

まるで石がずっと石であるかのように。だから成長する姿を見て驚いてしまう。

三国志で、ある脳筋武将がいた。人々もそう評価していた。ところが、心機一転猛勉強して国の参謀にも認められるようになると、人々は驚いた。

知性とはそういうものなのだ。対象が無機物の場合はいい。数学の公式なんかもいい。

それらは基本的には変化しない。

だが、対象が生物となると話が違ってくる。生物は変化する。

生物を無機物のように扱ってしまうと、それは固定概念となってしまう。

 

スポーツと知性

 

スポーツは、知性を使うのだろうか。これは、使わない方がいい。

よくプロスポーツ選手のインタビューで聞くのは

「(優勝などを)意識せずに行きます」

ということだ。積極的に意識します、という話はあまり聞いたことがない。

意識する、とは思考をする、ということで知性を使うということだ。

スポーツの対戦相手を前にして思考するだろうか?

この動きはフェイントか、右に行ったらこうして、左だったらああする、などといちいち考えたりはしない。そもそも考える暇はないし、考えたらぎこちなくなってしまう。

ましてや、優勝したら賞賛を受けるだの、賞金が貰えるだの、負けたらそれが無いだの考えるのは最悪だろう。体が緊張したり、試合に集中できない原因となってしまう。

意識せずに直観的にサッサと動いたほうがスポーツは実力を発揮できる。

この状態を「ゾーン」というらしい。

日本語で言い換えれば直観的とか無心とか夢中とかだろうか。

つまるところ、意識ではない。知性ではない。直観で動くのである。



直観とは何か

 

ここからは、より経験論に依っていく。

結論から言えば、直観とは思考なしにいきなり答えを閃くような機能である。

閃、という字にはピカッと光るというような意味もある。

直観も、一瞬光るような感じで答えが出てくる。

どこから答えが出てくるのか、それは今までのすべての経験、あるいはもっと深い何かかもしれない。

なぜ答えがやってくるのか?それはわからない。とにかく、いきなり答えが閃くのが直観である。

もう一つの働きは、以心伝心的な伝達の働きがあると思われる。「ゾーン心理学」では、ゾーン状態を鳥や魚の群れに例えている。鳥の群れを見ると、群れ単位でカクっと一斉に方向転換する。彼らは思考して動いているわけではないのだろう。無意識的に、直観的にシンクロして動いている。そのようにトレードせよ、とゾーン心理学の筆者は言っている。

どうしてそのようなことが可能なのかはよくわからない。

ただ、直観はおおむね経験的に見て当たる。何か不思議な機能である。

ということを前提にして、直観を利用する方法を書いてみる。

(しかしなにしろ直観はあたるということを前提にしているので、ここに共感出来ないなら読んでも仕方ないかもしれない。)



直観を利用するために

 

直観と雑念について。

あるイメージが思い浮かんだとする。例えば、相場が下がるとか、上がるとか。

それは直観なのか、雑念や願望なのか。

ロングポジションを持っていて、上がったら利益が手に入る。

だから上がってほしいという願望か。

あるいは、相場が上がるということを直観的に察知したものなのか。

経験的に言えば、私利私欲は直観の邪魔をする。

儲かったら嬉しいだの、損したら怖いだのという精神状態は直観の状態ではない。

先に述べたスポーツの例えをもう一度出してみよう。

ゾーン状態のときは、勝ち負けは考えていない。

ただただ、目の前のことに集中している状態で余念はない。

スポーツにしろトレードにしろ難しいのはここだろう。

誰だって、勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい。

どうしてそのことを意識せずにいられるだろうか。

だが、意識してしまえばゾーン状態ではない。

そういう意味ではトレードはスポーツよりもゾーンに入るのが難しいかもしれない。

儲けたくて相場をやるのだ。それを意識しないというのは普通ではない。

これは余談だがこういう話をたまに聞く。仮想通貨トレードで、BITMEXは損益がよくわからないのでやりやすい、という話だ。BITMEXはBTC建で取引されるので、何円勝ったのか負けたのかよくわからない。数字に疎い私は猶更である。なので、淡々とトレード出来た。BITMEXではなくとも、ドル建ての海外取引所はおおむね淡々とトレード出来る。ドルは普段日常で使わないので現実感がないのだ。よく言われるのは、ゲームの通貨でトレードしているというものでメンタルをブレさせずにトレード出来るということだ。国内取引所だと、デカデカと日本円で損益の数字が出てくる。すると、メンタルが弱い私などはすぐ動揺してしまう。ゾーンどころではなくなってしまうのだ。

 

直観と知性について

ある直観が閃いたとする。相場は上だ。と。

が、思い出していただきたい。知性というやつは固定概念を作ってしまう。

上だ、という直観を固定概念化し、その次は下落だという直観を無視してしまいがちになる。

とにかく知性というやつは過去に囚われがちなので注意が必要だと思う。

 

直観は創造である

発明は知性の産物だろうか、直観だろうか。

経験的に言って、直観である。

あれこれ考えた結論が発明だったときというよりは、

無関係のことをしていたときにハッと閃く。

禅やヨガは、意識を捨てよ、と言う。

禅やヨガは中国やインドという文明国で生まれ、類似の文化は遊牧や狩猟の社会には生まれなかった。

知性に偏るという害を取り除くために禅やヨガが生まれたとは言えないだろうか?

知性は、何度も言うように固定概念を作ってしまう。

例えば、昔の中国では知性の優れたものを選出しようと科挙という試験制度を作った。

しかし、その結果は中国文明の停滞ではなかろうか。

禅やヨガは、知性による固定概念を捨て、直観による創造性を探る手法とは言えないだろうか。

フランスの哲学者が、瞑想は必要であるという意味のことを言っていたのを見たことがある。

一方で、瞑想は危険性があると主張する人もいる。

それはそうだ。瞑想によるにしろ何にしろ創造とは、古い秩序の破壊を伴うものだ。

 

直観の主体は心である

宮本武蔵は、五輪の書で心の目で観よと述べている。これは直観のことだろう。

経験的にも、直観は脳ではなく心という感じがする。

特に証拠らしきものはない。私の直観による。

なので、心の健康を保つことは直観を養うことにつながると思う。

よく寝ること、やましいことはしないこと、嫌なことはしないこと。

 

社会の閉塞感について

知性は、閉鎖的である。知性は創造が出来ない。生物を無機物のように扱う。

過去の事象に囚われてしまう。固定概念で、社会を停滞させてしまう。

直観は、何物にも囚われない。自由である。

知性は科学を発展させたが、あまりに知性的すぎる社会は閉塞感を生む。

過去に創造的なことをした偉人が、今の名門大学の試験に合格できるか思い浮かべてほしい。

知性にしろ直観にしろ、適材適所ということだ。

知性による閉じた社会は個人的には飽き飽きしている。

直観・心というものがこれからの時代に大切なのではなかろうか?



*この記事は過去に書いた記事に加筆訂正したものである

 

参考図書

創造的進化 ベルクソン

道徳と宗教の二源泉 ベルクソン

ゾーン心理学 マーク・ダグラス